富野談義 |
![]()
「やがて宇宙移民しないといけないぐらい人類も地球もヤバい」という問題意識を潜ませた物語の世界観を今の子たちが見ると、「人類も地球もヤバいらしいけど、宇宙移民すればいいから、いいんだもん。(だって『ガンダム』でやってた。)」ぐらいのことは言いかねないのだよねー。
冒頭から富野氏が、「30年考えてみたけど、スペースコロニーで人類が生きていくことには懐疑的にならざるを得ない。人間工学ではスペースコロニーは作れませんし」と発言すると、福井氏は「じゃあ、ガンダムみたいな世界はないわけ!?」と落胆。「だってアニメだもん!」と笑顔でツッコミを入れるなど、終始メンバーに対して軽妙な返しを繰り出す富野氏に、会場の笑いが絶えないイベントとなった。
「夢を与える」という部分はもちろんあって、子どもの頃にガンダムを見て育った世代が、今では各方面の第一線で活躍してることは、富野監督もけっこう喜んでいるとは思います。
でも、この記事の見出しの立て方や、この記事に言及する反応を眺めていると、「夢と現実の区別が付いてない」人は、実際かなりいるかなーという感じもあるなぁ。
だからこそ、逆にこうやって監督自らが、「嘘だよーっ」って言わざるを得なくなるんだろうと思います。
で、だからといって、エンターテイメントとして上手な嘘をつくことそのものは否定してないんだよね。エンターテイメントというお楽しみは、祈りの心から発していて、人間が人間らしく生きるために必要なものだから。
監督は真面目な人だからいつも真剣に考えてしゃべっているのに、メディアはいつもネタとして消費したがるんだよなぁ。
まあ、それでも新作待望の機運が高まる一環になればよいかな。
きちんと考えていくと、どんなに技術が進歩したとしても、人間というものの本質は変わらないのだから、「スペースコロニー」のような空間は、「人々がそこで子を産み、育て、そして死んでいく」場には到底なり得ない、という話なのだと思います。
『機動戦士ガンダム』の頃は、そうなれば人間そのものが変わるんじゃないか、という見立てだったのかもしれません。
ただそれにしても逆説的には、そういう空間をシミュレーションしたときに、人間そのものが変わりでもしないと「もたない」んじゃないか、という回答が既に最初からある。
もう少し考えていくと、本質的には「人々がそこで子を産み、育て、そして死んでいく」場には到底なり得ない空間ではあっても、「技術的には人間が生活可能だ」というカタログスペック程度のことは、遠くない将来に実現可能なところまで来るかもしれないです。
カタログスペックだけで人間が本当にそこで子を産み、育て、死んでいくことができるかというと、そんなことは絶対にできない。
にもかかわらず、仮にこういうものが実際に研究され、実現されるとすれば、それは要らない人間をそこへ放り込むための「棄民政策」の器としてでしょう。
そうした時、夢と現実の区別がつかない大衆(あえて言えば「愚民」)は、カタログスペックだけを信用して、そういうところへホイホイと放り込まれていってしまうのではないか。
フィクションというものが、そうした愚民を育てる具にしかならないのであれば、それは不幸でしかない。富野監督は「現実を写す鏡」としてのフィクションというところに、アニメ屋一代、最後の力を尽くそうとしておられるんだろうと思います。
思念の世界と現実世界が背中合わせに存在する「バイストン・ウェル」の物語が監督のライフワークであるのも、つまりはそういうことなんですよね。
もうすぐ刊行される新装小説版の『リーンの翼』も、「新訳」と言っていいような内容のものになっているのではないかと、私はひそかに期待をしています。
((この記事は、某所に書いた内容を、コメントで追記した分も含めて、こっちにもメモしたものです。))
追記:
「スペースコロニーは実現できたらすごいけど、監督の言うとおり人間が住む環境としては劣悪だと思います。地球のド劣化版みたいなもんですからね。でもたまたまこういうものを作る技術ができてしまった、作れてしまったからにはそこを貧乏人の捨て場所にするというのは、人類が地球の有限に触れた瞬間に、平気でやっちゃうことかもしれない」
トミノがボケてフクイがツッコむ!? ガンダム2大巨匠が天文学的議論に臨む - 日刊サイゾー
なーんだ、福井さんが同じことを、もうその場で言ってたみたいですね(笑)。
富野談義 |
![]()
富野のいう映画的、というのは演出のことじゃないと思う。暗い箱の中に集った人々が、同じ方向を観て、一つの明かり、一つの物語を観るという体験のことを指す。
Twitter / psb1981: 富野のいう映画的、というのは演出のことじゃないと思う ...
PSB1981さんと直接話せばいいんだけど、これは素敵な慧眼で、なにか触発されたので、積極的に誤解する方向で(?)今年はじめてのライナーノート。(いろいろスミマセン。)
手塚治虫の漫画は「映画的」だとよく言われるし、私もそう思うけど、それは「映画的演出」というほうなのかも。
富野監督が、手塚先生はアニメを作りながら映画という感覚が分かってない…的な言い方をしてる時の「映画的」というのが、PSB1981さんが「暗い箱の中に集った人々が、同じ方向を観て、一つの明かり、一つの物語を観るという体験」ということなのかな、と思った。
たぶん、リミテッドアニメという言い方だけでは回収しきれない記号性みたいな性格が、手塚アニメにはあったような気がする。
「リミテッドで作った『TVアニメ』は、『アニメーション』とは違うんだよ」という言い訳と、(TVアニメ的な貧しさを全力で引き受けながら、)しゃにむに格闘してきたところに、手塚の弟子としては鬼子でもある富野監督の立ち位置はあるのかもしれない。
kodema手塚さんの言う3コマリミテッドでない
つまり2コマ1コマを基調としたフルアニメーション的性格を持ったアニメ作品が映画的であるか否か・・・。
そもそもこれはディズニーなど海外の全篇1コマのアニメーションを根本に置いた考え方ですよね。
富野さんの指摘するアニメーションの演出論、映画論とはそもそも論旨が異なりますし
折衝することがありませんからおそらく論議の余地はないかと思われます。
生前の手塚さんのアニメーションの解釈に関しては富野さんしかり色々な方に指摘されていますが
要するにディズニーなどの海外のアニメーションのそれを志向していただけに過ぎず
手塚さん本人の発言はどうあれ、それらフルアニメーションが実際に手塚漫画でいう映画的、実写的なる要素と結び付いたとは到底思えない訳ですよね
結局その辺りの手塚本人が行った誤解を招く様な発言、行動を補強材料として
本人の死後、様々な人たちにより主にアニメ作家としての手塚治虫批判がまかり通っている印象ですね。
prisoner022コメントありがとうございます。少し話題がずれますが…。
『海のトリトン』のDVDボックスには特典で幻のパイロットフィルム「青いトリトン」が入っているのだけど、いかにも手塚アニメなそれを見ると、富野喜幸が手塚アニメのどこに飽きたらなかったかがわかる気がするのです。
「映画的」というのは、物語の説明には必要のないディティール(質のようなもの)の積み上げなんじゃないかと。
安彦さんは、関係の無いところでチョコチョコ動かす富野コンテをアニメーター泣かせと言ったが、湖川さんはアニメーターの意欲を刺激する良いコンテと言ったのも、たぶんそういうような話だと思うのです。
私はストーリーテラーとしての富野由悠季が大好きで、その部分は手塚治虫から受け継いでいる要素が大きいのですが、アニメ演出家としての富野由悠季は高畑勲から学んだものが大きいのではないかと。
まあ、元のPSB1981さんのつぶやきが「演出のことじゃないと思う」と言っておられるので、本当はもう少し違う視点を導きだしたいところなんですけど、とりあえず思ったことを書き留めました。
kodemaすいません、僕が迂闊でした。
そもそも演出技法の話題ではないですよね!
ごめんなさい、上のコメントは忘れてください。
記事をよく読み込まないで発言してしまいました・・・
そうですよね、ストーリーテラーとしての手塚治虫と富野由悠季の共通点はよく言われる事ですよね
自分が手塚漫画に疎いのもあって、別の方向に突っ走ってしまいました・・・。
prisoner022いや、あの、私の元記事から演出のほうへと話がそれているんで、悪いのは私なんです。
PSB1981さんがおっしゃった「人々が一つの物語を観るという体験=映画」というのも、時間をかけて咀嚼していると味わいが少しずつ分かってくるいい話ですね。
うまく言えませんが、「設定が云々・・・」とか、「ここの作画は・・・」とか、何ていうのかな、脳内でブログのネタ帖を付けながら見るような映像は、映画的ではないのかも。
「映画的」なフィルムが激減したということもいえると思うし、「映画的」な客層も減ってしまったような気がします。
私が『ブレンパワード』の感想がなかなか書けないのは、あの作品が不思議に「映画的」だからなのだと思うのですよ。(笑)
prisoner022「演出のことじゃない」というか、「演出のことだけじゃない」って感じでしょうか。
作り手も受け手もそんぐりと、まんが・アニメ世代になってしまった時代に。
kaito2198さんが『∀ガンダム』放送開始後の星山博之さんのインタビューを文字起こししてくださって、「意見を」とのことなので、少し書いてみます。
[星山博之][ターンAガンダム][これはどうかな] アイデア出しはしたけど後は観察者っぽいというか、後半主ラインから外れてくのも想定内みたいな印象を私は受けますけど。
はてなブックマーク - 囚人022のはてブ - 2009年11月19日
「これはどうかな」と書いたのはブクマコメントしたとおり、『∀ガンダム』製作開始時に富野監督が真っ先に相談に行った星山さんが、この作品で果たした役割というのは、主戦力というよりも参謀長という感じだったのかなという印象を、このインタビューから私は感じたからです。
というのも、『∀ガンダム』は前半に比べて後半がやや不出来で、それは富野監督が星山さんを遠ざけたからじゃないのかというような意見をどこかで読んだことがあったからですが、最初こそ物語を軌道に乗せるまでは第一線で手本を示しても、後半に進み若手たちのスタッフワークが機能し始めるにつれて星山さんは富野監督の参謀長役に徹していくというのは、最初からある程度、二人の間でコンセンサスがあったのかなぁと私は感じたのです。
それはどういうことかというと、つまりこういうことです。(笑)
富野「20年ぶりにガンダムに力を貸してほしい」
星山「またミリタリー調で軍隊が出てくるなら代わり映えしない」
富野「でも、『小公女』なんかの名作もののように地に足のついた、普通の子供たちが出てきたどうだろう」
星山「・・・視聴者に違和感があるかもしれないけど、逆にそこから何かがでてくるんじゃないか。ドラマティックに見える部分以外にもドラマはある。一見、よくあるドラマツルギーというのがあるかもしれないけど、そうじゃないところにもドラマはあるんだ、というのを見せてもらいたい。」
星山さんは天性の脚本家ですから、インタビューの冒頭一文からでも生き生きと場面が立ち上がって見えてきます。「今さらガンダムなんて」と難色を示した星山氏に対して、そのガンダムで「名作もののように地に足のついた、普通の子供たち」の物語をやりたいんだというコンセプトを富野監督が示し、それに触発された星山さんが、ならば「ドラマティックに見える部分以外にもドラマはある」というのをやれればいいんじゃないかとアイデアを補強しているんですね。ただ、ここで「見せてもらいたい」と半身を引いているのは、それをやる主体は自分じゃないよという意思表示に見えますね。
この記事、ほとんど星山さんのインタビューに見えますが、表題を見れば「STAFF INTERVIEW 星山博之(脚本) 高橋哲子(文芸)」ということで、星山さんは一脚本家であって、シリーズ構成は高橋さんがやるよってタテマエです。なのにインタビューの実際も、名前の表記順も逆なのは、格の違いなんでしょう。
インタビュアーが「今回のストーリーづくりはどのように?」と聞いたのにも、考えてみれば文芸を差し置いて星山さんが答えてますけど(笑)、「ライターや文芸、設定の方と相談して、それを富野さんが整理して決めています」というふうに決定権を富野監督が持つスタッフワークのあり方というのを、重鎮である星山さん自身が一歩引いて示しているようにも見えます。
主人公ロランに関しても、「素直にアムロ(『初代ガンダム』の主人公)に戻してみようと思いました。彼も軍人ではなく、今度のロランも、敵側だけれど民間人です」という初期設定の部分には主体的に関わった感じですが、あとの展開は若手に任せるという気分が見える。結果として『∀ガンダム』という物語を駆動していく主軸はディアナ&キエルのほうへ行くわけだけど、このロランの立ち位置というのが終始しっかりしているので、その都度の事象を観察し判断していくロランのぶれない目線というのは観衆のそれにも近く、この複雑な物語にまとまりを与える重要なキーになってたんじゃないかと私は思います。
ロランの宝物だった謎アイテム(笑)「金魚」というアイデアを出したのは富野監督だったんですね。あれは子ども時代の思い出を超えて、少年が大人になっていく象徴のようなものだったのかな。しかし「富野さん、いいアイデアだ」と星山さんが背中を押さなかったら、ああいうふうに最終回で生かされることはなかったかもしれない。
第1話でロランが溺れるのが、「彼らは月に住んでいるから重力が違うのですよ。それでふらふらしてるんです」ってのは、この言いまわしだと星山さんのアイデアだったのかな。こんな、なかなか分かりにくいところにまで「バーチャルなコミュニケーションばかりになった時に、生で人と人が出会うというのはわずらわしいことですよね。でも、それも捨てたモンじゃない」というような思いが込められていて、それを監督は理解して作品の中に生かしている。深いなぁー!この作品も、この二人の信頼関係というのも。
そういう感じで、『∀ガンダム』という作品の製作にあたって星山博之さんが果たした役割はとても大きなものだったということが、このインタビューからはよく分かると思うのですが、それは作品の根幹に関わる基礎固めの部分であって、後半は若手ライターたちのスタッフワークを見守るつもりだったのではないかということも言葉の端々から伺える、というのが私がインタビューを読ませてもらった印象です。
ふざけおにこんなのあったんですか。笑いました。
prisoner022公認の二次創作と言うかパロディと言うか。
当時は正直、「やりすぎじゃないの?」と思ったんですけどね。w
「立ち居様」(たちいざま)というのは、「生き様」などというのとも似ていますが、普通には言わない言葉だと思うのですよねー。